長崎港 -デジカメ無料写真館-

長崎港の歴史を紐解きます。

長崎港(最重要港湾)※国の利害に重大な関係を有する政令で定められた港湾。

長崎港

長崎港の歴史は、ポルトガル船の来航が端緒となった元亀2年(1571年)に開港され、鎖国をひいた徳川幕府時代も唯一海外への門戸として、西洋文化受入れに重要な役割を果たしてきた。
明治維新後は横浜、神戸等と共に我国最重要港湾7大港の一つとなり、上海航路をはじめとしてオーストラリア、フィリピン、北米方面等の連絡船が寄港し繁栄の一途をたどった。

吃水の深い船舶が出入できる港又は外国船舶が常時出入する港を定義した「特定港」にも指定。

戦時中は三菱重工長崎造船所にて戦艦「武蔵」を建造。近年は海上自衛隊のイージス艦などの護衛艦や豪華客船のクリスタルハーモニー(現・飛鳥Ⅱ)、ダイヤモンドプリンセス(現・サファイヤプリンセス)などの大型客船を建造するなど造船と海運業で栄えた歴史を持つ土地で、港内を行き来する船の数や種類も多岐に渡っている。

また、昔から海にまつわる祭り(ペーロン大会や長崎みなとまつりなど)も多く、港を取り巻く環境は「港町・長崎」を世界中に認知させるだけの魅力ある景観と歴史の重みがあります。

その昔、「鶴の港」と呼ばれていた長崎港も海岸線の埋め立てなどで、その眺望も変わって来ていますが、海から見る景色や逆に山手から見る港の様子などは今も昔も大変美しい町並みです。

長崎港駅の歴史

長崎港の車輪

長崎港駅は、長崎駅から出島岸壁までの臨港鉄道として1930年(昭和5)3月19日に開業しました。
当時の長崎は、東洋一の国際都市として栄えていた上海と長崎を結ぶ上海航路で上海の文化が長崎に上陸し、全国に広がって行きました。

1942年(昭和17)、上海航路を担っていた連絡船の長崎丸は旧日本軍の機雷に触れ伊王島沖で沈没。翌年「上海丸」も南方兵員輸送船崎戸丸と衝突して揚子江沖で沈み、1943年(昭和18)上海航路の歴史は就航から20年でその歴史を終えました。

その後、臨港鉄道は貨物輸送を行い、昭和の中頃には長崎駅まで来た貨車の荷物を出島にあった倉庫群まで輸送する役目を果たしていた。しかし、貨物輸送が鉄道から自動車に移行すると共に取り扱い量も減り、1982年(昭和57年)臨港鉄道は開業以来約50年でその役目を終えました。

上の写真は、その当時の鉄道の車輪を線路の一部と共に出島のリンガーハット横に残したものです。当時は、川をまたいだ専用の鉄橋で繋がっていましたが、老朽化のため橋は取り壊されました。